冷え切った最後の一口。

コーヒーを買うことは、もはやエクスキューズでしかない。本当の意味でコーヒーが飲みたいわけではない。そういう役割演技をしないと、ここにいてはいけないのだ。/ 

本日、とある事情から神谷町周辺で時間つぶしをしなければいけなくなった。朝に予定があり、夕方にもおなじ場所で予定があるのだが、家に帰るには少々遠いのがその理由だ。ほどよくカフェも本屋もあり、天気は良いが少々肌寒いこの街での6時間。

カフェで本を読んだり移動してご飯食べたり、ネットを見たりこうして文章を書き始めたり。やることは意外とあるし、不都合なわけではない。しかし、ふとこのことに違和感を感じる。私は、自分の居場所を得るためにコーヒーを買っているのだろうか。

少しだけ座り続けるのにも飽きて散歩もしてみた。だが、立ち止まったり座ったりすることはできない。そういう場所が無いのだ。しいていえば公園だろうか。だが、それにしても私の居場所になりうる場所がとても少ない。

平日であることから、周りにいる人たちは何かしら仕事をしたり、用事に向かう最中であるのだろう。そういう人たちと比べて、自分には居場所が無いのだとつくづく思い知らされる。この街(という表記が適切だとはとても思えないが)には、何かしらの役割や目的がある人は生きていけるが、そうで無い人には居場所が無いのだ。

ビジネスビルが多いという神谷町の特徴もあるだろうが、ここに長時間滞在するためには私は数枚の硬貨と交換にコーヒーを得て、それをちびちび飲みながら過ごす必要がある。そうしたエクスキューズをしない限り、私はここにいてはいけないようにすら思う。

ただそこにいる、ということが難しい。何かをしていないと、いて良いと思えない。このプレッシャーは何に由来するのだろうか。人々は歩き続きている。どこかへいき、帰っていく。コーヒーが本当の意味で飲みたいわけではない。そうではないから、冷めたコーヒーの最後の一口を残している。

これは、もしかしたら日々の生活そのものではないだろうか。何もしないという、ただそこにいるという空白に耐えられないから私たちは消費をするのではないだろうか。目を背けるためにこそ、手を忙しく動かす理由を探し続けているのではないだろうか。飲みたくないコーヒーが、恨めしげに私を見つめている。