黒い犬について

私が幼かった頃、私と黒い犬は一心同体だった。私が何か見つければ彼が匂いを嗅ぎまわり、彼が見つけたものを私は手に取って眺めていた。私たちにはお互いがあまりに近すぎて、五感も行動も何もかもがシームレスに同期していた。

 

最初にズレを感じたのは、私ではなく黒い犬の方だった。おそらく小学校の最初の数年の間、彼は周りの人々が私に向ける目線を嗅ぎとり、唸り声を上げた。一方私は自分の気のままにいたので、彼の苛立ちが焦げ付くまで、まったく気付かなかった。奥歯に金属を差し込まれるようなその臭いを私が見つけた時にはもう、黒い犬は私の手の内から飛び出してしまっていた。

 

小学校の中頃になると、私は黒い犬をどう抑えるべきか、まったくわからないでいた。勝手に飛び出したりあちこち噛みつくその獣に引っ張り回されていた。私と彼とはまだ不可分なほどに近しかったので、私はそれをどうにかしようなどとは思わなかった。私は途方に暮れることも出来ず、ただただ振り回されていた。

ホコリっぽいマンションの非常階段で、私は親が仕事に行くのを黒い犬と一緒にやり過ごしていた。テレビをみて、みて、みて、疲れて寝てしまう事だけが唯一の救いだった。黒い犬が外に出たいと吠えるのを、私は宥めながら1日を過ごした。一方、外に出ようとすると私に噛みつくその黒い犬を、時には叩きながら、時には噛みつき返しながら夕暮れと眠気を待っていた。

そのうち私は、犬には手綱が必要だと気がついた。放し飼いにしてはいけないのだと気付いた。しつけが、あるいは強制が必要だと気づいた。そして、それに四苦八苦し、悩みつつもなんとかそれを御そうと努力した。

中学高校になると肉をあげると言っては古本屋を一緒に巡り、必要なら食べ疲れるまで本やマンガをあげた。時折夜中に走り出す犬に縋り付いて散歩に出掛けたこともあった。夜明けまでノートパソコンの中で走り回り、あるいは活字の中で泥遊びをした。さまざまなアニメやマンガ、ブギーポップ、キノ、十二国記ヘミングウェイカミュ檸檬、銀の器、などなどなどなど。

私の体はアザだらけだったし、黒い犬もボロボロだった。彼の牙は鋭かったし、私の肌もまだ柔らかだった。彼は耳も目も敏感だったし、鼻はもっと鋭敏だった。嘘の匂い、朝の匂いに敏感だったし、虚構と夕方の香りですぐに咳き込んだ。そしてそのたびにどこかに走り出そうとして私を引きずった。私は引きずられるのに傷つき、疲れていった。だがそれは彼も同じだった。私が巻き付けた首輪で犬の首はひどく傷つき、黒い毛は血とかさぶたでゴワゴワになっていた。

とうとうある日、彼は私をホームの端にひっぱっていった。彼は向こうのホームに飛んで行きたいと、私を強く強く引っ張った。あまりにその力が強いので、私はもうすぐで線路の中に放り込まれる所だった。なんとか踏みとどまってから犬の顔を見ると、彼の目の中には怒りがあって、その鼻は静かに絶望してしっとり濡れていた。私はそんな彼に餌を与え、宥め、嘘をついてごまかした。彼はそれに従い、私たちのぎこちない関係は双方の疲弊のおかげで安定した。

放っておくと黒い犬は見知らぬ人にも噛みつくので、私はなるべく安全な人たちと話をするようにした。数少ない友人達と一緒にいる時だけ、私の黒い犬も落ち着いて身を横たえていた。そして私はこの黒い犬を少しずつ御す方法を身につけていった。時たまの散歩、縄を強く握るべき時、逆に少し緩めてあげるべき時。

知らぬ土地、知らぬ人、怒られること、叱られること、外で一人でご飯を食べたりお茶を飲んだり。黒い犬が落ち着くに従って、私もだんだんと世の中に馴染んでいった。

黒い犬の手綱を緩めていても大丈夫な人も見つけて、私は黒い犬と良い関係を作り上げたと思った。

しかし、ここ最近、私はあることをひしひしと感じている。それはこの黒い犬の寿命だ。犬のそれは人より短い。そして、この犬は本来食べるべきものを食べさせてもらえず、頑強な檻の中でひどく弱っていた。彼はもっと骨太の何かを欲していたし、もっと走りたがっていた。今や彼は見るも無残にか細く、小さく、こじんまりとしてうすっぺらくなっていた。

彼の死期を感じ、私は夏の日差しの中で彼の影がいかに黒々としていたか、冬の寒い風の中で彼の毛皮がいかに暖かであったかを思い出している。彼をここまで懲らしめて、虐げて、私が得た社会生活とやらはいかほどの価値があるのか。あるいは、彼にもっと大きな檻を見つけてあげられなかったのが悪かったのか。

もはやわたしには、彼の横で寝物語を読み上げ、その唸り声を撫でることしかできない。きっと、彼はこのまま小さく小さくなっていくだろう。か細い声は聞き取れなくなるだろう。まるで蛍のように、その光はだんだん失われるだろう。そしていつか、それを見つめるわたしもまた、壺の中でしゃがれた老人となっていく。焼かれてまとめられて墓に葬られる。そうしたらきっと彼と好きなだけ走れるだろう。

それまではどうか元気でいてほしい。わたしも、あなたも。